なにも無いときこそ すべてが有るときBy newman / 2025-07-03 正月早々のことです。舌の根本、のど元、耳の中に激痛が走りました。そして、痛さのあまり、食べることも、話すこともできなくなったのです。その日は朝、昼、晩の三食を抜くことになりました。 痛みは頭に響くほどで、痛むたびに体をくねらせて気を紛らわせていましたが、薄紙をはぐかのように日に日に回復していき、5日目の朝、何事もなかったかのように治りました。 「普段、何気なく過ごしていることが、どれだけ有り難いことか分かるね」と妻の言葉を聞き、とても納得しました。 確かにその通り。辛い病を患ったからこそ、変わらない日々の暮らしの有り難さが身に沁みます。 大恩忘れて小恩送るような事ではならんで。 (明治34年2月4日 おさしづ) 私たちは、普段いろんな方のお世話になって生きています。そのような恩(小恩)に対して、お礼をしていると思います。 人の恩は返すものの、身体をお借りし、24時間365日、休みなく身の内でお働きくだされ、日ごろの暮らしを奥底から支えておられる親神様の恩(大恩)は気づくことさえなく、忘れるところまでもいっていないのではないでしょうか。 代わり映えのしない一見単調に思える日々こそ、神様のお働きを一つとして欠けることなく頂いている時であって、「なにも無い時こそ、すべてが有る時」。 う思えば、何気ない普段の生活が幸福感で彩られ、親神様への感謝の気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。